Gamerで執筆しているライターに、年末年始に合わせて自由に書いてもらおうという企画。本記事では小林白菜がお届けします。
おかげさまで2025年もゲームに原稿作成にと忙しく過ごしつつも、合間を縫って漫画もそれなりの数を読むことができました(活字書籍はほとんど読むことが出来ず……情けない話ですが)。
そんな中でもとくに印象深かった作品のひとつが、「くらべて、けみして 校閲部の九重さん」(新潮社/著:こいしゆうか/協力:新潮社校閲部)でした。本作は、新潮社をモデルにした出版社“新頂社”の校閲部で働く人々を描いたお仕事モノの漫画です。
単行本1巻の発売は2023年。現在もWeb文芸誌「yom yom」で連載が続いており、2025年には2巻が発売されています。この2巻が書店の新刊コーナーで目に留まったのが、自分が作品を認知した切っ掛けでした。そのまま購入して、1巻・2巻あわせて夢中で一気に読みました。
校閲者の仕事は、出版されるまえの本(いわゆるゲラ)を読み、「言葉や表現そのものの正確さ、的確さを見分けること」であると本作の第1話冒頭で説明されます。これが単に誤字・脱字の指摘だけに留まらない、実に奥が深いものであることが、物語を通して詳らかにされてゆくのです。
前後の描写に矛盾がないか確認したり……。現代ではほとんど使われていない漢字の使われ方をしている箇所があれば、その用法が正しいのか、複数の辞書を当たってチェック。辞書に載っていなくても過去に同様の使用事例があるかどうかを可能な限り確認したり……。小説の描写から現実の日付や時期が特定できるなら、天気や電車のダイヤなどに現実との齟齬がないかを確認する、なんてことも校閲の仕事として描かれます。
ただ通り一遍に表記を揃えたりするのではなく、あくまで「著者が目指す表現を尊重した上で、“表現としての誤り”と思われる箇所に伺いを立てる」仕事であるというのが、エピソードを重ねるたびに浮かび上がっていくのが印象的です。
物語としておもしろいのは、登場する校閲者によっても校閲におけるポリシーが異なるところ。タイトルにもなっている九重(くじゅう)さんは社歴10年。彼女の校閲においてのポリシーは、「作品に夢中にならない」こと。作品世界に没入するように読んでしまっては、誤りや矛盾を俯瞰的に見つけることが難しくなる、といった考え方が根底にある模様。
しかし、伝説の校閲者である矢彦さん(モデルになったのは矢彦孝彦氏)が思う“いい校閲”が「作品に対して感動する気持ちを持っていること」であると聞き、九重さんは改めて「よりよい校閲とは何か?」を見つめ直すことになります。ほかにも一癖も二癖もある校閲者が登場し、ひとりひとりの想いがときにぶつかり合うことで、言葉の奥深さと、そこに込められた“たくさんの人の想い”が描かれてゆくのです。
2巻には、差別的な価値観を助長する可能性のある表現をめぐるエピソードも。「物語の構成さえも覆しかねない指摘を校閲者が行うべきなのか?」ということと、「そのままの表現で世に出た場合に、著者が意図していないメッセージを世の中に発信してしまう可能性」の間で、校閲者たちは揺れます。
このエピソードに「会社も一度それで問題になってますが~」という台詞があったので気になって調べてみたところ、どうやら2018年発売の「新潮45」に掲載された論考をめぐる批判を踏まえた台詞と考えて間違いなさそうでした。自社のあまり掘り返されたくはないであろう歴史すらも織り込んだ描写から、言葉をめぐる仕事の影響の大きさへの責任と矜持を感じました。
さて、自分が主に記事を書いているWebメディアにはほとんどの場合、校閲を専門としたスタッフはいません(少なくとも自分が仕事をしているWebメディアでは関わったことがありません)。ライターが書いた原稿の誤りを編集さんが指摘・修正してくれることもありますが、あくまで編集者の仕事は“記事として体裁を整える”ことであり、表現の正確さを見定めることそのものに主眼を置いた業務とは言えないと思います。
Web媒体は紙の書籍と違って、あとから修正すること自体は容易です。掲載後に読者の指摘などで事実誤認が発覚した場合、修正とともにお詫びの文章を載せる、という対応が一般的かと思われます。
それでも、やはり事実誤認があったときは申し訳なく、情けないし、あとから誤字脱字に気付いたときは悔しい。すでに公開された記事を読み返していて「もっとこういう表現を使ったほうが読者に響いたんじゃないか?」と思うこともあります。与えられた時間の中で、可能な限り自分自身で、言葉や表現の正確さを検証し、ブラッシュアップするにはどうすればいいか? ジレンマは終わりません。

「ひとつひとつの表現にこだわったとして、どれだけの人がそこまで読んでくれるのだろう?」と疑問に思うこともあります。それでも「くらべて、けみして」を読んで、扱うジャンルは違えど、言葉という表現にここまで真剣に向き合っている人がいまもいるのだと思えたことは、とても心強いことでした。
本作では、新頂社が校閲に力を入れている理由を語る上で、「百年後に残す一冊を作っていくという意志」という台詞が出てきます。Webメディアの記事が100年後に残っているとは正直ちょっと考えづらいですが、読んだ人の心に強い印象を残した結果として、その人の人生が少なからず変化し、それによって次の世代にも影響を与える可能性は決してゼロではありません。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、ゲームメディアをメインに活動するライターだからこそ胸に留めておくべきこともあると思います。たとえばゲームレビューならば、コントローラーをにぎる握力や自由に動く指のある両手を誰しもが持っているわけではないことは想像が付くでしょう。であれば、安易に「誰もが楽しめるゲーム」みたいに書くのはどうなのか? それは当事者に対して「“みんな”にお前は含んでいない」というメッセージになってしまうんじゃないか? とか。
自分がこれまで書いてきた原稿にそういった表現が無かったとは言い切れませんし、文章を書き続けていく以上、“誰も傷付けない”ことは不可能であるとも思っています。それでも、そうやってできる範囲で考えあぐねた過程は、もしかしたらこれから書いていく文章にも息づいて、いつか誰かの背中を押すものになるかもしれない。そういった反応をもしもSNSなどで見つけられたなら本当に嬉しいですし、そしてそれは逆もまた然りと言えるでしょう。
「くらべて、けみして 校閲部の九重さん」は、そんな“言葉と向き合う怖さと楽しさ”を再認識させられた作品でした。
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