メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏が主催するイベント「黒川塾」。その100回目と著書である「セガ 体感ゲームの時代 1985-1990」の出版記念を合わせたトークイベントが5月15日にTUNNEL TOKYOで開催された。
目次
今回は、書籍にも協力したセガOBと現役のセガ社員総勢7名が集結。主に書籍でも取り上げられていた、セガの体感ゲームの話題を中心に、様々なトークが繰り広げられた。

イベント開始に先駆けて、前説として話し始めた黒川氏。実はこの日は偶然にも父親の命日だったことを明かす。その父親が病気になったときに相談しに行ったのが、その当時セガの社長を務めていた中山隼雄氏だったのだ。また、これまた偶然ながらこのイベントの前日に中山氏にもあっていたという黒川氏。書籍にも中山氏のことを書いていたのだが、挨拶をしたときに「迷惑なんだよね」と言われたのだという。
実は、こうした記事や書籍が出るたびに、国内外のメディアから取材のオファーが中山氏のところに来てしまうからというのが理由であった。……という話をしているときに時間となり、ここで今回のゲスト陣を呼び込んでイベントがスタートとなった。

自転車の企画からバイクへと変貌を遂げた「ハングオン」
今回のゲストとして登壇したのは、麻生宏氏、西川正次氏、山田順久氏、Hiro師匠こと川口Hiro博史氏、松野雅樹氏、三船敏氏、濱垣博志氏の7名だ。背景のスライドには、当時のセガの母屋が映し出されており、「ここで面接したんだよ」「ここで奥さんと出会った」など、当時の話に花が咲いていた。

その後、「ハングオンビル」とも呼ばれる旧本社旧2号館や当時の新本社1号館など、会社の成長とともにセガの仕事場も徐々に大きくなっていった。この「ハングオンビル」の名称は、「ハングオン」が大ヒットしたことから建てられたビルだと言われていたが、ここで参加者から異論が飛び出す。
実はこのビルの定礎を見てみると、「ハングオン」の発売前だったのだ。タイミング的にも「ハングオン」の発売される頃にビルの工事がスタートしていた。しかし、外部の人から見ると「ハングオン」の大ヒットで建てられたような印象があったため、このような呼ばれ方になったのである。

続いて話題はこのビルの名前にもなった、セガの体感ゲーム機「ハングオン」に。スライドで映されていたスケッチを描いたのは、今回のイベントには急遽参加できなくなった山崎徳明氏だ。ここでは赤ではなく黄色い筐体の色が描かれていたが、参加者によって記憶が曖昧であったものの、「そういえばあった」という感じで、当時を思い出していた。

当時コアランドテクノロジーにいた濱垣氏は、最初にセガにオファーしたのはバイクではなく自転車をモチーフにしたエアロビのゲームだったと企画の経緯を明かす。ゲームとしては、自転車を漕いで健康増進を促すというものを想定したのだ。
自転車のほうは、コアランドテクノロジーの若い女性デザイナーが作っていたのだが、「自転車じゃ面白くねーぞ」と若い男子がいい、「バイク作りたいバイク作りたい」と書いたという記憶が濱垣氏の中にあるという。その濱垣氏からの提案と、セガの開発陣も「これならバイクだよね」という話しになり、そちらの方向に開発の舵を切ることになったのだ。

一方、この「ハングオン」がデビュー作だったのが、川口氏だ。「裕さんがこれ誘ってくれなかったら、今はないかも」と振り返っていたが、実は川口氏は元々プログラマーとしてセガに入社している。それがなぜか鈴木裕氏に引っぱられる形で参加することになったのだが、先日鈴木氏本人にその理由を聞いてみたところ「覚えていない」と、あっさりした答えをもらったというエピソードを披露していた。

山田氏によると、この「ハングオン」は大友克洋氏の「AKIRA」に出てくる金田のバイクをイメージしたデザインだという。東京アールアンドデーという、ホンダ系のデザインを行っている会社が機構設計を行い持ち込まれてきた。しかし、途中で機構がうまくいかないということになり、山田氏は当時の本部長から「お前ちょっと絡んでみろ」と言われて、確認を始めている。
実は、「ハングオン」は当初、バイクをトーション・スプリングで立てようとしていた。これがぽよよんとしたバネのようなものであったため、常にバイクが傾いてしまっていたのだ。最初に黄色のイラストで描かれたものには、このトーション・スプリングが採用されていた。
山田氏の15歳年上だった先輩にこれじゃダメだから直してくれといっても直してもらえず、当時の本部長に直訴している。そこで、吉川照男氏にお願いすることになり、コンプレッション・スプリングを使って自立するようにしてもらったのだ。

この「ハングオン」で、もうひとつ特徴的なところが縦長のコインボックスだ。当時のコインボックスはそれほど大きくなかったのだが、このゲームに関しては立ったままの状態でお金を入れなければならない。しゃがんだ状態で、「こうやれば入れられるでしょ?」と言われたものの、山田氏は「いや、そうじゃない」と言い返す。その結果、縦長のコインボックスになったのだが、その副次的な作用として、とにかくたくさんお金が入れられるようになった。
「ハングオン」の初期段階のものは、その名に反してバイクを左右に傾けてカーブを曲がるハングオンができなかった。それはまだトーション・スプリングが使われていたというのが理由だ。それがあるときから「新しいものができたよ」と言われて乗ってみたところ、バイクに乗ったままハングオンもできるようになっていたのである。ここで大きく貢献したのが、先ほどの吉川氏であった。
ちなみに、三船氏がセガに入社して、最初に与えられた仕事がこの「ハングオン」のテストドライバーだった。その当時。もうひとりのテストドライバーだった人物にどうしても勝つことはできなかったのだが、「リリースされた時点では世界で2番目に速かったんですよ!」とアピール。しかし参加者からは、すぐに「だってふたりしかいなかったんだから」というツッコミが入れられていた。
この「ハングオン」のテストには、鈴木裕氏もプレイしていた。自身でも「グローブがやぶれるぐらいやった」とアピールしていたのだが、その話しについては真実であると三船氏はいう。三船氏自身も、最初にグローブを渡されて、「これをしろ。そうじゃないと、手がとんでもないことになるぞ」と言われていたのだ。それもそのはずで、1日中バイクにまたがって操作しなければならないため、手への負担もかなり大きかったのである。

セガが「ハングオン」の体感ゲームで成功して、それを他社も追いかけるような形になった。その当時、ライバルの任天堂から1983年にファミコンが発売されており、セガからもSG-1000とSC-3000を出している。ナムコなどもコンシューマー向けのハードを出そうとしていたが、結局やめており、結果として任天堂とセガが残り1強1弱の状態になったと山田氏はいう。
セガは、自社でハードを販売していたということもあり、任天堂向けのゲームの開発はできなかった。だが、ナムコはファミコンに参入したことから240億円売り上げて経常利益率も30パーセント近かったのである。当時はアミューズメントを担当していたことからそれを横目で見ていた山田氏は、「わぁ、うらやましいな」と思いつつも、セガもハードを撤退すればもっと利益が上げられると思っていたそうだ。
そうした背景があったなかで、これはもうアミューズメントで利益を上げるしかないということから必死でやった結果が、「ハングオン」などの成功に繋がっているのだ。

業界初の海外ロケハンで「アウトラン」のゲームさながらに枝分かれに!?
乗り物の体感ゲームとしては「アウトラン」も有名だが、こちらは当初「デッドヒート」と呼ばれる企画から変更されたものだった。この「アウトラン」を開発する過程のなかで、鈴木裕氏と石井洋児氏のふたりが、業界初のロケーションハンティングでヨーロッパに行くことになった。

最初はアメリカでルート66を突っ走るという話もあったのだが、殺風景で危険ということからヨーロッパに変更されている。ここから先は黒川氏の本には書かれていない部分ではあるのだが、最初は仲が良かったものの、男同士で1週間ほどの旅だったこともあってか、途中で鈴木氏と石井氏の間で行きたい方向が分かれてしまった。しかし、車は1台しかなかったため、上司である石井氏を立てて鈴木氏が電車で移動することにあったのである。
まさに「アウトラン」のような枝分かれ状態になったのだが、その後駅で待ち合わせしたものの、当たり前だがまだ携帯などの連絡手段もなく、駅も想像以上に大きかったため、なかなか会うことができなかった。その後、なんとか会うことでき、「もう、こういうことは止めよう」と仲直りしたのだという。

この「アウトラン」の次に登場したのが、「スペースハリアー」や「アフターバーナー」だ。麻生氏が関わっていたのはJAMMAショーまでで、その頃の「スペースハリアー」はまだ人ではなく戦闘機のほうのハリアーが飛んでいたという。
当時、この切り換えのタイミングを見ていた三船氏によると、元々人の状態で出ていたのだが、このJAMMAショーのときに戦闘機に変更していた。それは、会社側から「人じゃダメだ。戻せ」と言われたというのが理由であった。
しかし、ショーが終わった後で鈴木裕氏が「やっぱり人でやりたい」という話をしたのだが、なかなかOKをもらうことができなかった。そうしてもめていたときに鈴木裕氏がいった言葉が、「これ売れなかったら給料いらないから、人でやらせてくれ」であった。それを間近で見ていた三船氏は、そこまでやらないとなかなか自分の意志を通すことはできないんだなと思ったという。

そうした結果、「スペースハリアー」のキャラクターは人になったのだが……商売的な視点で見ると、大成功というよりも、まぁまぁの結果だった。どうしても車のゲームと比べてしまうと、そこまで売上げが大きかったわけではなかったのだ。
ちなみに、この「スペースハリアー」のサウンドを手掛けた川口氏は、好きにやることができたと語る。それは、オーダーとしてあったのが映画の「ネバー・エンディング・ストーリー」風にするということだけだったからだ。
この「スペースハリアー」のサウンドは評判がよく、JAMMAショーの会場内でも「これはゲーム機から音が出ているんですか?」と聞いてくる人がいたほどであった。それほどサウンドがリッチに聞こえたのである。また、川口氏によると、発売後にゲーセンでボリュームをマックスにしたところ、インカムが上がったという話もあったという。

ディスプレイメーカーも驚くほどハイコントラストな設定だった「2研セッティング」
続いて先ほども「アウトラン」のところで出てきた、鈴木裕氏と石井洋児氏の話題に。石井氏は、部下からの信頼があついタイプだ。麻生氏は、「ファンタジーゾーン」の企画を書くときに、絵を描かされていた。その企画書の時点ではこれが面白くなるのかなと思っていたものの、実際にゲームができたら面白かったことから、すごいと感じていたというエピソードを披露していた。

また、昔のジャイアンツのように、誰と組んだらうまくいくかを考えて、優れたプレイヤーを集めてゲームを作るといったところもあった。麻生氏は、そこは少しずるいなと感じていたそうだ。

一方、黒川氏によると鈴木氏はあまり過去を振り返らないタイプだという。核心的な部分については話を聞いてもはぐらかされてしまうのだ。そんな鈴木氏に三船氏が誘われるきっかけとなったのは、じつはキーボードが打てるからというのが理由であった。当時はまだパソコンが普及していなかったこともあり、新人のなかでキーボードを触ったことがない人のほうが多かったのだ。しかし、その後テストプレイに関わることになり、結局キーボードは全く関係なかったのである。

「常に最新の技術は2研」からといわれるほど、当時鈴木氏が所属していたAM2研は、斬新なものを作っていた。その中のひとつが、いわゆる「2研セッティング」といわれるものだ。松野氏によると、この「2研セッティング」とは異常に色温度が高い設定で、白が青っぽくなってしまうぐらいハイコントラストな設定のことをさしている。
これは、プロジェクションテレビで普通の映像のように出すと、色が飛んでしまって見られないようなセッティングであった。それを鈴木氏が好んでいたのである。また、そちらに合わせてグラフィックを作りこんでいったのだが、これらは「バーチャレーシング」あたりから始まったものであった。
ゲームが3DCGになって行くにつれてハイコントラストな設定になっていたのだが、実際に「2研セッティング」と呼ぶようになったのは初代の「バーチャファイター」あたりの頃だという。そのため、ディスプレイメーカーは、「え? こんなに上げるの?」と驚いていた。それぐらい非常識なほど、この「2研セッティング」は色温度が高かったのだ。

セガの体感ゲームの最終形態ともいえる「R360」は、元々松野氏がオーストラリアで見学してきたものがベースになっている。それを、セガでもっといいものを作ろうというところから生まれたものだ。「ハングオン」から始まり進化し続けてきたセガの体感ゲームの頂点ともいえる存在だが、松野氏から見ると「ただ大きいだけ」といった認識だという。
ちなみにこれはセガの公式では発表されていないことだが、黒川氏によると現在この「R360」が日本に輸入されてセガでレストアが行われている。ただ、どうしても当時の部品が手に入らないため、直らないところもあるそうだ。特に発表される予定もないそうだが、何かしら起きそうなことにどうしても期待してしまう。

謎の半導体メーカーはセガが育てた!?
「謎の半導体メーカー」とも一部のメディアに呼ばれたことのあるNVIDIAだが、その成長のきっかけを作ったのはセガだった。このセガとNVIDIAとの関係は、西川氏によると交渉というよりも仕様についてこうしてほしい、ああしてほしいといった要望を出して試作を作ってもらっていた仲であった。
当時は、コンシューマーゲーム機でセガサターンが出た後だ。セガサターンはディスクベースのゲーム機だが、ライバルのNINTENND64はカートリッジベースであった。そこで、社内でもカートリッジベースのものをやったほうがいいのではないかという話しになり、アンダーグラウンドではあったものの、そのときにいろいろな会社をチョイスしていたのである。そして、そのひとつがNVIDIAだったのだ。

ちなみに西川氏は、その当時のNVIDIAが現在のように成長するとは全く思っていなかったという。それもそのはずで、その頃のNVIDIAは社員が10人もいないような組織であったからだ。ジェンスン氏は、元々LSIロジックの営業担当だった。その中にいた3人でスピンアウトし、NIVIDIAを起ち上げている。
オフィスも掘っ立て小屋のようなところで働いていたのだが、西川氏はジェンスン・フアン氏とよく食事などにはいっていた。彼らはPC向けというころもあり、いろいろと苦労していたときでもあった。その頃は3dfxのグラフィックボードであるVoodooなどが出てきたときだが、いわゆるオンチップの3Dグラフィックチップではなかった。
通常のグラフィックボードとは別に3Dグラフィックに対応したアドオンカードを入れて、そちらを通して合成したものを戻して絵を出していたのである。西川氏は、そんなものでは売れないんじゃないかという話しをしていた。しかし、その頃からジェンスン氏は「自分はいつかIntelを超える会社にしてみたい」と話していたと当時を振り返る。

また、その頃ジェンスン氏からNVIDIAの役員にならないかと誘われた西川氏。当時そのことを会社に相談したのだが、ふたつの会社に所属することはできなかったため、そのままセガとNVIDIAという関係で仕事を続けていくことになったのだ。
ちなみに、佐藤秀樹氏が数年前にジェンスン氏に会ったときに、今でも株を持っているか聞かれたところ、すべて売ってしまっていたと答えた。そのときにジェンスン氏からは、「今持っていたら300億だったな」といわれ残念な気持ちになったそうだ。
自分で作ってみて「スペースハリアー」がヘリじゃなくなった理由がわかった
麻生氏が思い出に残っているゲームは、「サンダーブレード」だという。そこに至るまでの話しとして、元々「スペースハリアー」が「ヘリライダー」という名前で、ヘリコプターのゲームだったというところまで遡る。しかし、「ヘリライダー」は196パターンも作らなければいけないことから、無理だということでハリアーに変更されることになったのだ。
そのハリアーになったときに、鈴木裕氏と大人げないことでケンカした麻生氏は、「お前もういらない」と言われてしまう。それで悔しくなり、麻生氏はヘリコプターのゲームということで「サンダーブレード」を作ったのである。

だが、実際に作ってみたところ、鈴木裕氏がヘリコプターを辞めた理由がよくわかった。その理由は、ヘリコプターは遅いし止まるし、いろんな視点があるなど、パターン数が山ほど作らなければならなくなるからだ。そのため、ちょっと料理しづらかったという。
また、この「サンダーブレード」は、操縦桿が重かった。そうしたことから、自分でテストを行うときは椅子を持ってきて後ろから動かしていた。ちなみに筐体に関してセンスが良く、モニターを中央に配置するのではなく少し脇に置かれていた。
麻生氏はその後、「シェンムー」でも鈴木氏と一緒に仕事をすることになっため、結果的に鈴木裕氏で始まり鈴木裕氏で終わったことになったのである。
大型体感ゲームが無くなった理由は?
「R360」でひとつの頂点を極めたセガの体感ゲームだが、その後、徐々に史上から姿を消していく。そうした大型体感ゲームがなくなった理由について、西川氏は格闘ゲームが流行ったことであまり遊ばれなくなったのではないかという。
「ヘビーウェイトチャンプ」など体を使って遊ぶゲームもあったが、だんだん指先だけで遊べるゲームになっていった。セガもそれに準ずるような形になっていったのである。また、UFOキャッチャーなどプライズ系があったことから、会社の方針としてもあまり作られなくなっていったのだ。
山田氏は、家庭用ゲーム機のレベルがゲームセンターのハードと遜色がなくなってきたことで、家でも遊べるようになったことがひとつの理由だという。当時も体感ゲームは家ではできないことから模索していたのだが、場所の取り合いから収益が上がるプライズゲームなどに移っていったのだ。
川口氏は、開発コストが上がってきたことが問題だと考えている。乗せられる容量が増えて開発時間も増えて、当たればいいが外れるとデカイ。そのあたりがビジネス的に難しくなってきたのではないかという。

松野氏は、なくなった理由についてはよくわからないものの、体感ゲームが一時期流行ったのはゲームセンターに風営法が施行されたのも影響していると事例を紹介。当時のゲームはほぼ1ゲーム100円で、テーブルゲームばかりだった。だが風営法が施行されたことで、稼働時間がすごく短くなってしまったのだ。そのためロケーションの収益も苦しくなったのである。そうなってくると、あとは客単価を上げるしか手段はない。
そこで、最初に体感ゲームの「ハングオン」を出したときは、当時えー? というぐらいプレイ料金が高い、1回200円だった。それで一時期盛り上がっていき、「R360」では1回500円までプレイ料金が上がっていった。次は1000円かといっていたものの、限界が訪れたのだ。
三船氏は、ゲームセンターのゲームを作っているときに言われたことが、坪単価だったという。これは設置面積あたり、どれぐらい稼ぐことができるのかというものだが、テーブルゲームはそれほど稼げなかった。しかし、格闘ゲームが出てきたときに、狭い面積でもキャッシュが入ってくるようになったのだ。
そのため、体感ゲームを置くよりも、そちらを何台か置いた方がいいということになった。また、体感ゲーム自体が「R360」以上のことができなくなったというのも理由だという。普通に出しても、「あれ、これ昔あったよね」と言われてしまうからだ。
濱垣氏は、CGの性能が上がったことを理由にあげる。家庭用ゲーム機の性能があがり、ゲームセンターよりも家庭用のほうが良くなってきた。作る側も、「アクションゲームはもういいや、RPG作りてぇ」となってしまったのも理由だ。ただ、3~4年後にはまた体感ゲームに時代がくるのではないかと、濱垣氏は考えている。
これは「ハングオン」などこれまでセガが出してきた現代版がバカバカ出てくるんじゃないかと、思っているそうだ。ただし、川口氏によると今現在セガでそうしたものを作っていることはないという。
麻生氏は、体感ゲームに関してはジョイポリスのような施設に任せた方がいいと考えている。こうした施設では、みんな大型のゲーム機などを楽しんでいる。そのため、無理に金額のことを考えながらゲームセンターに押し込むよりも、こうした施設で遊べるようにしたほういいのではないかと答えていた。
今のゲーム市場やセガに足りないものは?
今回のトークセッションで、最後に選ばれたテーマが「現在のゲーム市場(またセガ)に足りないものは何か?」だ。これに対して濱垣氏は、自分たちの世代のセガはヤンキーだったと当時を振り返る。ヤンキーで、やんちゃで、アウトロー。エリートコースから外れた感じでもあったため、なんでもありな状態だった。そうした、わけわからない状態というものは現在はなくなってしまったところだ。
三船氏は、今のセガは調子がいいものの昔のIPを使ってやっているものがすごく増えてきている。それは少し見ていてさびしいため、調子がいいからこそ、新しいものを見せてほしいという。ここで三船氏から昔プレゼンの企画会議でおきた出来事が紹介された。あまり売れていないゲームがあり、当時の中山社長がその会議で怒ったことがあった。
誰がやったんだという話になったときに、今回初めてプロジェクトに携わった人間だったことがわかると、中山氏は「だったらしょうがない。初めてのやつは失敗するんだよ。そんなものを計画に入れているおまえらがいけないんだ」と言ったことがあったのである。そうした文化があったからこそ、三船氏は自由にチャレンジさせてもらうことができたのだ。また、それを現在のセガにもやってほしいと語っていた。

松野氏は、自身が入った頃は昭和で、今考えるととんでもないブラック企業だった。だが、これはイヤイヤ仕事をしていたわけではなく、帰りたくなくて帰らなかったのだ。当時これをやれと指示されたのは「スペースハリアー」ぐらいだった。あとは、勝手に次はこれをやりますという感じで、勝手にやっていたのだ。また、そうしたことを許すような時代背景があったのである。
セガの現役社員でもある川口氏は、アーケードは新しいジャンルが出てきて、お客さんも変化していく。しかし、プリクラ以降、新しいジャンルのゲームは存在していない。それをセガで作ってほしいと考えている。そうしたものが出てくることによって、ゲーセンにも人が来るようになるのではないかという。
山田氏は、当時のことで思い出深いのは鈴木裕氏とのできごとだったと振り返る。あるとき、人間ドックで半日以上一緒にいたことがあった。ふたりとも横浜方面だったことから、帰りに一緒に飲まないかという話しになったのだ。山田氏は横浜には住んでいたもののそれほど詳しくなかったため、鈴木裕氏に連れられて雑居ビルのようなところにある店に行くことになった。
実際に行ってみたところ、店が1軒しかないようなところで、ドアが開いたらいきなりおねぇさんがいるようなお店だった。そのときに鈴木裕氏は、「あれ、山田さん、こんなところに来ちゃった」といいつつも、お店に入ることになったのだが、その後奥にいた女の子に「祐さん久しぶり!」と声を掛けられたというエピソードを披露していた。そして、それがセガに足りないものだと笑って答えていた。
西川氏は、セガのスピリッツが時代を作っていたと当時を振り返る。ハードにしてもソフトにしても、新しいものを作る。やっている人たちは、面白いものを作るという思いがあった。そこをもっと突き詰めると、面白くなるのではないかと語った。
麻生氏は、セガでは5年間アーケードゲームに携わって、その後10年間コンシューマーゲームを作ってきた。バンダイナムコなどはIPを使うことが多いが、セガは業務用のゲームがIPだったのだ。業務用ゲームが中心になり、ほぼ引っぱってきたという歴史がある。ゲームでいきなり作るのではなく、何かを業務用で挑戦して、それが売れたらコンシューマーにもっていくといったことをやってほしいと考えているそうだ。

これにて今回の黒川塾は修了。次回は5月22日に大阪ラテラルで元任天堂の今村孝矢氏と元セガの奥村豊氏をゲストにイベントが行われる。近くにお住まいの人は、ぜひこちらのイベントにも参加してみてはいかがだろうか?
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